京都の畳の歴史

先週の土曜日、久しぶりの夜桜と京料理を楽しませてもらった。京都には独特の歴史の香りがする筆舌に尽くしがたいオーラが感じられるのは私だけでなかろう。

 
座敷で舞妓さんの日本舞踊を堪能させてもらった後、酒をつがれつつ彼女が「舞は畳一畳の中で踊るのどすえ」と言われ、何となく畳を見ると、我々が普段使っている畳より若干大きいことに気付き、思いを馳せた。職業柄、何でも税に結び付けて恐縮だが、大昔から京の税金は土地の広さではなく、「間口」で測った距離に対して地租税が課されたので、どの家もうなぎの寝床みたいになってしまった。話を戻して畳の大きさだが、京間といって、普通1間が6尺だが、江戸間は5尺8寸、京間は6尺5寸であるので、京都の畳の大きさは東京より随分と大きい。
 
何故そうなったのかというと、時代は江戸時代に遡り、田沼意次の全盛時代。東海道の一番の要所が京であった。その京を管轄するのが伏見奉行である。当然幕府の直轄地で、その時の伏見奉行に当時、小堀政方というのがいた。彼は有名な小堀遠州の孫で、学問がすこぶるできた。超エリートであったが、任命された半年間はまじめに代官職を務めていたものの、土地柄、芸者遊びを覚え、そのうちある芸者に入れあげ、その挙句金に困り始め、京の豪商から御用金一千両を調達した。事態がそれで終われば良かったのだが、こういう輩が狂いだすと止まらない。遂に畳税というのを考案して、新築家屋について畳一枚につきいくらという税金を課したのだから堪らない。京の町も活気が失せたが、町民はこの時から僅かでも畳の寸法をごまかし節税した結果、京畳の寸法は他より大きくなったのである。
 
後日談であるが、町民はこの措置に怒って江戸に直訴しようとした。有名な文珠九助他2人が命を懸けて(当時、直訴は本当の命懸けである)この悪代官を追放しようとしたのである。伏見には毎年5月18日、義民祭りというのが御香宮神社で行われるが、この事である。最終的には寺社奉行松平の邸前において訴状を捧げることになり、小堀政方が失脚し、小田原城主に領けられ改易となったといわれる。
 

京の夜桜を堪能しながら、民主主義でなかった江戸時代の方が、税に対する庶民感覚をお上が気にしていたのかと思っていた。